【東京】消えゆく昭和の団地たちを惜しむ【公営・公団住宅】

 

ドキュメント昭和の団地 

 

 

 

 

イントロダクション

 

公団住宅、公営住宅をご存知ですか?

 

労働者や低所得者向けの住宅を提供する目的で、地方自治体や特殊法人、または独立行政法人が建設したアパートです。

特に公営住宅は、1965年(昭和40年)~1985年(昭和60年)建てられたものが多く、全体の60%を占めます。 

国土交通省住宅局 平成28年7月

 

コンクリートの耐用年数は30~50年と言われており、これら60%の古い団地は更新期を迎えています。

劣化したコンクリート建造物は、耐震性も低く、陳腐化し、新たな入居者の期待を満たすものではありません。

恐らく、これから10年以内でかなりの公営住宅と公団住宅が建て替えられると予想されます。

 

 

しかしこれらRC建造物は、木造の旧家や、レンガ造りの倉庫とは違って、文化財としての価値を持つことはありません。

保存は望むべくもなく、解体された後には新しい団地か新しい高層居住ビルが建つだけです。

住宅不足解消という時代の要望に沿って作られた団地は、全て瓦礫と化し、産業廃棄物になり、中央防波堤へダンプで運搬され(要出典)、原型をとどめません。

 

その場所にかつて何があったか誰も知ることは無くなります。

元居住者が死すれば、誰からの記憶からも消えてます。

 

まさに諸行無常。

Everything changes. old Danchis gone.

アツい。行かねば。

アカシックレコードの他に団地を覚えている最後の人類となるために。

 

 

 

 

公団住宅と公営住宅

 

 

公団住宅と公営住宅は区別しづらくて脳内でごっちゃになりそうですが、実は違います。

 

独立行政法人が管理する「公団住宅」と、地方自治体が管理する「公営住宅」です。その違いを見てみましょう。

 

 

公営住宅

 

公営住宅は地方自治体が低所得者向けに賃貸する住宅です。日本では、公営住宅法(昭和26年法律193号)によって定められています。

公営住宅の家賃は1998年に改正された公営住宅法の規定により定められ、世帯所得により家賃が異なります。

 

・歴史

1924年、関東大震災を受けて「同潤会」が設立されました。1941年の太平洋戦争時に軍需産業の労働者向け住宅を供給する「住宅営団」となりました。終戦後GHQにより解体されました。

1945年、主要都市は空襲により住宅が不足しました。国庫補助により簡易住宅30万戸の建設が決定しました。49年頃には応急的な住宅供給から恒久的な住宅政策へ転換しました。

1950年、住宅金融公庫が発足

1951年、公営住宅法が制定されました。

公営住宅 -wikipediaより抜粋

 

公団住宅はあくまで自治体の物なので、実はpdfで一覧が出ています。

都営住宅一覧

実際に訪れた新河岸二丁目アパートは1ページ目の下の方に書いてあります。

 

 

公団住宅

 

公団住宅は日本住宅公団、現 都市再生機構が供給した住宅です。「UR賃貸住宅」として有名かと思います。

 

・歴史

1955年、日本住宅公団は、住宅に困窮する勤労者への住宅提供を目的として日本住宅公団法により設立されました。上の公営住宅の項に出てきた旧「同潤会」を参考にして設立したとのこと。

1981年、日本住宅公団は住宅・都市整備公団法により解散しました。特殊法人「住宅・都市整備公団」に業務が継承されました。

1999年、独立行政法人「都市基盤整備公団」となります。2004年に「都市再生機構」と改称し現在に至ります。

日本住宅公団 -wikipedia より抜粋

 

……..

 

歴史を遡ると両方とも営利ではないのは似ていますが、公団住宅(現UR都市機構)は現在、普通に収益重視です。

UR都市機構 平成29年の決算報告書によると、経常利益が412億円でてます。

 

公営住宅は本当に公共の利益のために建てられています。入居希望者は一定の収入以上だと入居できません。

例えば東京都の例では

です。

 

 

私のイメージでは、公営住宅は更新サイクルが遅いです。一方で公団住宅(UR)はバンバン新しくて綺麗な高層マンションを立ててますね。

 

とは言っても、公営住宅でも建て替えは進んでいます。

その一つが「新河岸2丁目アパート」です。

 

 

板橋区 新河岸二丁目アパートに行ってきた

 

まずは公営住宅です。

 

都営三田線高島平駅から約1km、荒川にほど近い場所に解体を待つアパート群があります。

 

こちらが新河岸二丁目アパート、15号棟です。

既に住民は退去し閉鎖されて解体を待つのみです。RC5階建てで、ぱっと見そこまでボロくはないですが。

 

隣の新河岸二丁目14号アパートは足場が組まれて解体中です。

 

 

新河岸二丁目15号アパートの壁面に定礎マークの板が付いていました。

商業ビルのような、社長が筆で書いた文字を転写したものではなく、普通のフォントです。

「都営新河岸二丁目アパート15号棟 昭和50年11月完成。」

今から44年遡って1975年製です。

 

 

取り残された自転車。

住民の引っ越しが終了し、柵に囲われたアパートは、がらんどうの空間。

これはこれで廃墟。

というか、れっきとした廃墟です。

 

最後の住民が去ってから解体工事で瓦礫となりダンプで運ばれるまで、その短い期間、都営新河岸二丁目アパートは最後の生を全うしています。

錆びれた団地というのも中々に風流です。

 

つい数カ月前までは、ここに人の暮らしがあったはずです。

 

新聞、回覧板、友人からの手紙、年賀状、または電話代の請求書、ピザ屋やパチンコ屋の広告、くだらないダイレクトメールの山、

ポストには様々な人が様々なものを投函していきました。

 

空洞以外のものが直方体を埋めることはありません。

 

……

 

通りに面した1階部分は、昔店舗だったようです。

かつては多くの住民がこぞってテレビや洗濯機や冷蔵庫を買い求めたのでしょう。

 

 

このロゴもアパート解体のときコンクリートの瓦礫と共にここを去ります。

 

工事柵の中に猫が居ました。彼らには人間の築いた柵は通用しません。

 

 

新しい新河岸二丁目アパートの建築計画の看板です。

それによると、平成33年完成予定です。

 

平成33年無いけどね。

 

 

 

赤羽台団地 49号棟に行ってきた

 

赤羽駅から250mの位置にある「赤羽台団地49号棟」も解体が迫っています。赤羽台団地のうち、棟によっては既に解体、建て替え完了済みです。

 

この赤羽台団地49号棟だけ、何故か3方向にでこぼこ飛び出してる形状です。

解体するには惜しい変態建築ですね。

 

錆の流れたベランダが見えます。

室内は和室なのでしょうか。ここからは想像することしか出来ません。

 

 

奥に見える赤羽台団地4号棟は普通の直方体の形です。こちらも住民は退去済み。

 

 

すぐ左隣に「新しい赤羽台団地」10号棟があります。

赤羽なので都内在勤者には便利ですし、こんなきれいな住宅なら人気も出そうです。

 

建て替え後の赤羽台団地には、「ヌーヴェル赤羽台」というオシャンティ~な名前が付いています。

 

nouvelle(ヌーヴェル)とはフランス語で「新しい」という意味。

そのまんまです。

わざとフランス語とかにして煙に巻きやがるナウなネーミングセンスめ。けなしてるわけじゃないですよ。

 

 

 

おわりに

 

臨海地区にはこんな感じの多くの高層住宅が立ち並んでいます。

高額納税者たちが、かっこよくて先進的な居住場所に大枚を叩いて入居します。

 

今のこの写真からだと想像だにできませんが、必ず陳腐化するでしょう。

私としては新しい。キレイ。海が見える。コミケが近い。と言われているビルが数十年後陳腐化し空き部屋率が上がり、それらが錆びれた姿は一体どんなものになるか、どんな風景になるのか今から楽しみです。そしたらまた解体寸前に見に行きます。

 

 

 

 

 

ドキュメント昭和の団地 

製作統括:山本

監督:山本

演出:山本

ディレクター:山本

AD:山本

ナレーター:山本

写真提供:山本

協力:山本

取材日:2019.01.30

 

~著作・政策 NSZエンタープライズ~

 

 

 

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