【海外廃線鉄】アゼルバイジャン 石積みアーチ橋

 

 

海外廃線鉄史上最もアツい物件を見つけてしまった。

 

今回紹介するGadabayのレンガ造りの橋のインパクトは半端ではありません。その数の多さ。美しさ。作られた年代が19世紀。ほぼ誰にも知られず未知につつまれていました。

自分で言うのもなんですがどれをとってもヤバい。

もちろんソ連時代の情報があまり外に出なかったからなのもあるし、崩壊後もソ連の南の端っこのあまり目立たないアゼルバイジャンの、そのさらに奥地の村の更に奥の村オブ村みたいな本当にわけがわからないよ。

 

後述しますがこれは1879年-1883に建設で

コーカサス最初の鉄道だったらしい。

ますますやばい。

 

探査:2019/12/13

 

 

Qanlı körpü

 

その名をガンリ・キョルプウといいます。地元民に聞いたらガンリチョルプウと言ってた思い出がありますが私の耳が悪かったんですね。

körpü はアゼルバイジャン語で「橋」という意味です。

 

ほぼ情報が無くおそらく西側(もちろん日本も)には全然知られていないですがアゼルバイジャンのコアな一部の旅行者には多少有名なようでインスタグラムで「Gadabay」と検索すると橋の写真が出てきます。

 

場所

 

Gadabayと言っていますが、実際にはGadabayよりさらに奥にあります。

この廃線沿線の村の一部はgoogle map上にプロットされていますが、一部は完全にプロットさえされていない小さな村です。そうした村の存在を確認するには航空写真が必要です。航空写真にすると「えっここ家や道あったの?」となります。

 

もちろん廃線跡のラインはプロットされていません。(当たり前だ) 唯一、最も有名(?)な到達しやすく規模が大きい橋は、観光名所としてプロットしています。他は何も書いておらず航空写真モードにすれば影が浮かび上がっているのがわかります。

執筆時点の2020年1月10日でレビュー件数が16件。これは実質誰にも知られてないレベルです。本当にヤバいです。これは広めてください。マルチ商法でいいのでこれを友達、家族、親戚、職場、悪友、引きこもり、敵、味方、中立国、の人に広めてぜひアゼルバイジャンへ行くようそそのかしましょう。

 

 

Gadabay Stone Bridge

 

Shamkirという街からマルシュトカに揺られること1時間。Gadabayの街に到着しバスから降り立ちます。写真を撮っているといきなり警官がやってきました。アゼルバイジャンには合計25日以上滞在しましたがポリツェイが来たのは唯一ここだけです。街にアジア人が来たのは前代未聞かもしれません。

バスはここまでで橋まではさらに7kmほどあります。

有料ヒッチでLADA Nivaに乗車。若者3人で良い奴らだったので1マナト-70円 で乗せてくれました。

 

歩く

 

車は5km走ってくれました。ヒッチで降りた場所から更に村々を突っ切って2km歩いていきます。

村ではそこそこ怪しまれます。いやもうほんとRPGの村人だよ?

地元民は歩いている変なアジア人に声をかけてきたり怪しい目で見てきます。愛想よくサラムというのが最善です。私は既に知っていても道を聞くふりをして不審者でないアピールをしていました。英語は99.9%不可です。ロシア語は25から30%くらい通じます。Gadaayなんて町降りただけで職質だしほんとどこだよここ。

 

既にエモい。線路跡を歩いていく。

廃線鉄も色々な場所があります。日本のような温暖湿潤気候では鬱蒼とした森林地帯は藪をかき分け顔に引っかき傷を作り不愉快な虫たちがまとわりつきます。

しかしこのガダベイの廃線跡はすがすがしさしかありません。道は一部ぬかるんではいても殆どは歩きやすく左手には美しいコーカサス。

Google mapに道がプロットしていない、航空写真だけが頼りです。案外電波は良くBaku Cellが普通に通信できます。

 

 

 

激エモ眼鏡橋

 

ついに邂逅。航空写真だけで見えた君。来たよ僕は。

 

確認できたのは14箇所のアーチ橋跡です。うち3つは崩落。3つは巨大かつ完全に近い状態です。

最初に出迎えてくれるのがこいつ。3つの巨大かつ完全な形状の橋のひとつです。エモすぎて言葉もないよ。Gaadabayから10km程度離れているうえに村の家々は線路がある場所よりかなり下の方の谷底にあるので地元民に会う事すらありません。自分だけの時間を、本当に自分だけの空間を味わえます。

 

ここを訪れる人は少なく-google評価が16件しかないし-オーバーツーリズムとは無縁で好きなだけ上を渡れます。迷惑な正義の味方は居ません。己の足で空中に聳え立つかつての鉄道跡を堂々と歩けるのは清々しいです。人工物は橋を除いてほぼなく、雑草と遠くに放牧した羊かヤギがいて遠くに少しだけ家が見えます。

危険と思うかもしれませんがそんなものはバイアスで140年持ち堪えたのだから今いきなり崩れる事は無いはずです。しかも死んだところでまだ生まれてなかった数十年前の元の状態に戻るだけなので問題ないでしょう。

 

 

これ19世紀にできた橋ってマジか?保存状態良すぎないか。後述しますが1879年-1983に開業したとのこと。

 

 

橋一覧

 

14件の見つけた橋。

 

  1. 大 6連(google mapのガンリキョルプウ)
  2. 小 1連
  3. 中 3連
  4. 大 7連 盛大に崩壊
  5. 中 3連
  6. 小 1連
  7. 中 崩壊しすぎて不明 (多分3連)
  8. 小 1連 (内側が3段で特徴あり)
  9. 小 1連
  10. 小 1連
  11. 中 最も酷い崩壊(脚が4本なので3連か?)
  12. 大 6連
  13. 大 7連 落ち着いた雰囲気がgood
  14. 中 、半分崩壊(5か6連?)

1,12,13が見どころです。4が生き残ってればかなり綺麗だったと思います。 14は北東側が生き残り南西は壊れてかえってかっこいいです。

 

優勝すぎる。アゼルバイジャン版士幌線。しかし士幌線より1/5000兆静かです。最初に海外廃線鉄史上と言いましたが、国内廃線鉄でもこのレベルは相当ない気がします。

地球上で最も極上の廃線物件の一つといっても過言ではない。

 

 

歩みを勧めます。

 

 

橋2

次に現れる1連の小さなアーチ橋

 

 

橋3 かなり垂直な形で整っていて小さいながら気に入りました。

 

 

 

この橋は何だったのか

 

一体この橋は何だったのか。数も多ければ最大7連眼鏡橋は美しすぎるし存在することが驚愕。生まれに疑問がわきます。

 

In the middle of the nineteenth century, copper ore deposits were discovered in Gadabay region and a copper plant was built by local entrepreneurs between 1855 and 1856. Later this plant was purchased by the German company “Siemens” and rebuilt in 1865. Azerbaijanis, Russians, Germans, Greeks, Bulgarians, Romanians, Italians and others were working in this company.

19世紀半ばに銅鉱床ががダダベイ地方で発見され1855-1856に工場が建設された。後に工場はドイツのシーメンスカンパニーに買い取られた。1865年に再建設した。アゼルバイジャン・ロシア人・ドイツ人・ギリシア人・ブルガリア人・ルーマニア人・イタリア人 ほかが会社で働いた。

Gadabay-Galakend railway of 28 km was constructed between 1879 and 1883. This railway was used to transport combustible materials. There were 4 locomotives and 33 wagons on this railroad.

28km鉄道が1879年から1883年の間に建設された。生産物の運搬に使われた4つの機関車、33のワゴンがあった。

Siemens brothers copper-smelting plant – Wikipedia 英語版

 

 

正体は19世紀末に生まれた銅鉱山専用線だった。

 

 

橋4 全ての橋が美しく残っているわけではありません。崩落したものもあります。柱は8本あります。左端は隠れています。

 

橋5

3連。一旦静養。自然の浸食に耐え続けた石橋。役目を終えて特に意味もなく存在し続ける石橋。明日もここに存在し続ける。倒れる日まで。エモすぎる。

 

The year 1900 was marked by the most favorable production indicators, which is associated with the general economic growth in Russia in the early years of the 20th century. Gadabay and Gadabay copper smelters worked until the beginning of the World War I. However, by this time the Siemens had cooled off towards business. Initially, domestic political instability and conflicts in Russia, and then the war dealt a crushing blow to the mining industry. The railway was closed in 1915. In 1920, the enterprises were nationalized by the decree of the Azerbaijan Revolutionary Committee, and in 1923, by a decision of the Council of People’s Commissars of the AzSSR, a commission was established to resume the work of the factories. But the commission’s activity had no real effect, and the enterprises of the Siemens brothers began to gradually turn into a dead pile of metal and concrete.

1900年代は最も工場が盛んだった。ロシアの20世紀初頭の経済成長に伴って。ガダベイ鉱山、工場は第一次世界大戦の始まりまで働いた。このころ徐々にビジネスは冷え込んだ。ロシア国内の政治的な争いと不安定、戦争が銅を掘る工場を破壊した。

鉄道は1915年に閉鎖。

鉱山は1920年にアゼルバイジャン人民委員会(AzSSR)により国有化。しかし委員会は実際には働いておらず山は死んだ山になった。

Siemens brothers copper-smelting plant – Wikipedia 英語版

 

 

橋5-6の間はしばらく橋が無い区間が続きます。この区間の景色もエモいです。背後のコーカサス山脈が冬に白く染まっています。鉄道の区間は幸い雪に覆われず簡単に歩けます。

 

 

橋6

 

1873年には約6キロメートルの翼線が敷かれ、2879年(1の間違いのはず)にはトランスコーカシアに最初の鉄道線が敷かれ、長さは28 kmになりました。この鉄道には4台の機関車と33台の馬車がありました。今日、道路に架かる橋は歴史的な記念碑のままです。

Siemens Qardaşları mis əritmə zavodu – Vikipediya アゼルバイジャン語版にもおおむね似たことが書かれています。

 

橋7

 

Siemense Bridge

 

シーメンスについてシーメンスの誰やねんと言いたくなります。鉄道車両のメーカーとしてヲタク的には有名ですが、大きな電子機器メーカーのコングロマリット。家としてはもっと古く、シーメンスはドイツの大きな家系です(Siemens Family)。

シーメンスの家系のひとりヴェルナー・フォン・ジーメンス -Werner von Siemens(1816-1992)がこの橋に関わっているようです。彼は設計技師でした。

 

橋8

内側が3段の差がついている不思議な構造。なんでこんなにしたんだ。傾斜に合わせるにしてもあまり見ない構造。

 

 

Gadabay銅鉱山鉄道

 

先述のwikiの情報に頼りまとめるとこんな感じらしい。

  • 1879年開業
  • 1915年廃止
  • 28km(32kmという説もある)

たった36年の短い命だったようです。それより余程長い時間 -105年-ここに廃線、廃橋梁として佇んでいます。105年とはどれだけ頑丈に作ったんだドイツ人。世界大戦を潜り抜けたのは田舎過ぎたことかつすでに閉山していて標的にならなかったからでしょうかね。

私が歩いたのは10km程度なので残り20kmは廃線跡があったはずです。

 

 

橋9

 

コーカサス最初の鉄道だったらしい

 

Tracing the Story of Gedebey’s Railway – History – Visions of Azerbaijan Magazine

現在(2020.01)唯一この廃線の有力なサイトです。良く解説されておりサイトの執筆者も発見した時の驚きをつづっていました。

 

Nonetheless, there was another unresolved issue: the mine in Gedebey and the plant in Galakent were about 30 km apart. There wasn’t a developed transport connection, beyond a walking path. But a proper transport connection was needed in order to transfer the ore from the mine to the plant in Galakent, as well as to deliver the refined minerals back to Gedebey. The proposed solution was to build a railway, or, more precisely, a narrow-gauge line.

ゲデベイの鉱山とガラケントの工場は約30 km離れていました。歩行経路を超えて、発達した輸送接続はありませんでした。しかし、鉱石を鉱山からガラケントの工場に移し、精製された鉱物をゲデベイに戻すには、適切な輸送接続が必要でした。提案された解決策は、鉄道、より正確には狭軌線を建設することでした。

工場と鉱山が離れておりそれを解決するために鉄道を敷いたとのこと。やっぱりナローだったそうですね。

 

The Gedebey-Galakent railway was one of the first railways of its kind in Azerbaijan (the Baku-Sabunchu-Surakhani line had already been in operation since 29 April 1880) and the South Caucasus

ゲデベイ-ガラケント鉄道は、アゼルバイジャン(バクー-サブンチュ-スラハニ線が1880年4月29日からすでに運行されていた)と南コーカサスで最初の鉄道の1つでした。

 

まじか。これは大変なものを見つけてしまった。

 

橋10

 

Tracing the Story of Gedebey’s Railway – History – Visions of Azerbaijan Magazine

引き続きこのサイトによると距離は28kmや30kmという説があるが、Werner von Siemens自身の回顧録では32kmになっているとのこと。

ルート上のさまざまな範囲で23のアーチブリッジの遺跡を見ることができると書いてあります。つまり私の廃線鉄は不完全でした。

一部の橋は100年前と同じですが橋は危機的な状態にあります。

 

The arch-bridge in Duzyurd is infamously called Qanlı Körpü (which literally translates as “Bloody Bridge”). The reason why people call it this is because of a deadly crash in which wagons fell off the bridge killing all the people on the board

Duzyurdという橋は悪名高く「血の橋」と呼ばれていました。ワゴンがクラッシュし人が落下して死んだからです。

 

 

橋11

これは一番ひどい保存状態で柱もほとんど消滅しています。距離と間隔からすると4つの橋台なので3連か?

 

 

橋12

最後の6連橋。最初の1本目と最後のこいつがアーチ数が多い上に崩れずに美しく残ってます。しかし左端を見るとかなり欠けている部分が見えます。

 

その左端がこれ。いつ崩落するか。持ちこたえてくれ。

 

橋脚に破損している箇所(右から3本目)があり土台の限界度が高いです。いつ崩れ去るかは分かりません。

 

 

おわり!

 

 

と思ったら。

 

 

まだいた。

 

googlemapの航空写真をガン見していたらさらに線路跡がある事に気づいてしまった。橋12から橋14の間は村で分断されて宅地が一旦造成されて線路跡が曖昧になっていて見落としていたが更に先にどう考えても線路跡が。

その先にはあと2つの橋がある。

時刻は14時50分

 

3km程度なので急げば間に合う。車をつかまえて麓のShamkirのホテルまで戻る時間を考えると結構危ないんですが、ここにはもう二度と来ないでしょう。日が暮れてもいい。いやヒッチするのに日が暮れると相当困るんだけど良い意味で自暴自棄になっているので私の絶望的な未来のことは考えず私を呼んでいる橋の事だけを考えます。

 

航空写真で2本見つけたのは3km程度離れています。速足で行けばまあ間に合うはず知らんけど。

 

 

ダメ押しのふたつ

 

間に合った。

 

橋13

唯一7連で綺麗に生き残っている-つまりこれが最も巨大-ものです。雲先生が出てきてしまいましたが、これはこれで落ち着いた雰囲気が良いです。晴れてたらもっとかっこよさそうな橋ですね。右手前が限界に近づいていますがとはいえ保存状態が良い。

 

橋14

ここは村落の中にあります。奥に墓地が見えます。

 

人々の生活と溶け込んでいるのも風情がありますね。毎日この橋を見て暮らしている人が居ます。

 

 

これで本当に探索終了。

本当にありがとう。マジでエモかった。無理してきてよかった。

 

この銅鉱山専用線19世紀廃線跡は地球上の廃線史上、最も記念塔的だと言っても過言ではないです。まじですごい。

 

来て

 

 

アゼルバイジャン人の家で静養

 

帰宅困難になりたくはありません。

探索後、下界へ帰るための車を探すために住宅街をあるきます。住宅街を探すと言っても車をパクるとか(ハリウッドかよ)ではなく人が多い所はヒッチできる確率が上がるから。

しかしこの山奥車の音がさっぱりしません。というか人影もびっくりするくらい少ないです。

少し歩くと地元民の優しいおじさんに会いました。彼は家に招待してくれてチャイをくれましたがこの時時刻が16時を回っていてもう下界へ帰れないのではと心配していたので気が気ではなかったけれども、ここまで来たら流れに身を任せるしか無いですね。

彼に橋について聞くと、1870 Geramans built (немцв строили) とgoogle翻訳に打ち込んでくれました。地元民でもやはり語り継がれてますね。こんなものが無視されてたらそれはそれでおかしいけど。廃止時期は聞いても彼は分かりませんでした。

 

 

もっと橋はある

 

私は正確な資料を基に調査していないので、線路網がどうだったとか全く分かりません。調べも所詮wikipediaとウェブサイトひとつです。とにかく地球上にはこんなエモい物体があるということだけはお知らせしました。

ソ連時代って、共産主義と言えば過去を焼くものだし、資料がどっかフッ飛ぶ、しかもアゼルバイジャンの資料ってアゼルバイジャン語ですか? 僕のIQじゃむりだ。

wikiや前のwebサイトには28kmあるいは32kmあったと書かれており例のwebでは24の橋があったとの報告があります。ただしサイトによるとGadabay市街の方は家が建ってトレースするのが難しくなっているとのこと。私はここまでだ..

 

後任者求む!(ぶん投げ(無責任))

 

 

 

どうやって行くか

 

アゼルバイジャン第二の都市GanjaからバスでGadabayまでは行けます。その先はアゼルバイジャンあるあるの有料ヒッチか、お金が余っていればタクシーを呼ぶこともできます。

橋は本当に山奥なので公共交通をあてにはできません。そんな場所だからこそ案外乗り合いで助けてくれるので、到達不可能とか帰宅困難で破滅は無いです。

私はShamkirに一泊しました。

 

おわりに

行ってください。

 

 

Shamkir のホテルの案内にも1枚だけ橋の写真がありました。

SHAMKIR DISTRICT » Meridian-f Hotel

 

地名(google mapだと出ない村)

Səbətkeçməz

 

Siemens Brothers – Wikipedia memo用

 

ガダベイ トレッキングツアー Ganjaの安ホステルの人によるとガダベイトレッキングツアーというのも開催されたらしい(2019年12月)

街には2018年にできたという新しい道路橋があった。信じられないようなgoogle mapにすらない街にも

 

アゼルバイジャン 廃線跡

 

開発が来るのね。

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