チェルノブイリ原発 究極の廃墟

 

 

20世紀史上究極の廃墟。

 

 

 

イントロダクション

 

どうもNSZ山本です。

チェルノブイリをご存知ですか。こんな質問はナンセンスでしょう。

1986年、その悪名高い名前は世界中に知れ渡ってしまいました。

それまでは広大なソ連邦の中の、森に囲まれた無名の街でしたが..

 

どこにあるの?

 

チェルノブイリは歴史でもテレビの中のものでもありません。航空写真を見ればそれが今も存在していることが分かります。

 

チェルノブイリはウクライナにあります。ウクライナは旧ソ連の共和国のひとつでした。

 

チェルノブイリはウクライナの首都キエフから直線距離で北に約130kmの場所に位置します。

日本で言えば東京から日光、あるいは東京から伊豆の伊東とだいたい同じ距離です。首都からの意外なほどの近さに驚かされます。

 

 

チェルノブイリ原発事故とは

 

1986年4月26日 深夜0:23(UTC+3)、チェルノブイリ原発事故が発生しました。

4つの原子炉が稼働中でその中で4号炉が炉心融解の後に爆発しました。

 

残念ながらソ連政府はすぐには事態を公表しませんでした。

事故発生から2日以上経った4/28の朝、スウェーデンのフォルスマルク原発の職員が、靴から高放射線量が検出されたことに気付きました。

スウェーデン政府がロシアに問い合わせた結果、ようやく事態が世界中に公になりました。

 

ソ連当局はホウ素を含む砂を投下するなどといったいくつもの対策を行い、10日目の5/6にようやく大規模な放射線流出は収まりました。

 

4号炉の放射線流出を抑えるため、86年6月から石棺を建設する工事が開始しました。

86年11月、石棺は完成しました。この石棺の耐用年数は30年とされていました。

 

 

人間/生物への影響

 

被害者は、ソ連政府の発表では運転員と消防士の33人となっています。

1986年ウィーンでIAEAの非公開会議が行われました。そこでの公式見解によると死者は4000人とのこと。

 

「2000年4月26日の14周年追悼式典での発表によれば、ロシアの事故処理従事者86万人中5万5000人が既に死亡しており、ウクライナ国内(人口約5000万人)の国内被曝者総数342.7万人の内、作業員は86.9%が病気に罹っている。」

作業員の87%が病気になっています。

 

10km区域内の森林は「赤い森」と呼ばれています。大量の放射性降下物で立ち枯れ、枯死したとのこと。

それらの松はあまりにも汚染がひどく、他所へ運ぶことができませんでした。そのためその場に埋めて上から砂で厚く覆ったとのこと。

動物では奇形の犬(閲覧注意)も報告されています。その写真はwikipeWikで見ることができます。

 

 

チェルノブイリ原発

 

 

残念ながら現在のチェルノブイリは新石棺に覆われ、86年当時の旧石棺の姿を見ることはできません。

現在見られるのは、新安全封じ込め作戦(NSC)によって作られた新石棺です。

 

新石棺

 

1986年事故当時に突貫工事で作った旧石棺は経年劣化によりリスクを抱えていました。そのため、新安全封じ込め作戦(Chernobyl New Safe Confinement)のプロジェクトが始まりました。

NSCのプロジェクトの総工費は15億ユーロです。新しい石棺は向こう100年の耐久が可能とされています。

 

2010年:工事開始。NSCのプロジェクトでは、アーチ状の石棺を横で組み立ててそれをスライドする方式が取られました。

2016年11月14日:スライド開始。

2016年11月29日;スライド完了

2018年末、工事が完了しました

 

 

 

 

柵と有刺鉄線に囲まれオリジナルの中身を見る事はできません。1日ツアーで見る事が出来るのはここまでです。

それでも、チェルノブイリの新石棺は見ごたえがあります。

 

ちなみに、

プリピャチ村(廃村のひとつ)の公式ホームページの”gallery”で、枚数は少な目ですがかつての写真も見る事が出来ます。

Photo galleries – Website of the City of Pripyat – Chernobyl disaster, news, articles, media

 

チェルノブイリは事故により本来の役目は果たしていません。しかし核を沈静化するために多くの人が働いています。

実際問題廃墟ではないといえます。

 

しかし凄いのはここからです。

チェルノブイリ周辺の村々はとんでもない規模の廃墟郡になっています。

 

 

 

廃墟と化した周囲の村々

 

 

「ソ連政府は事故から36時間後にチェルノブイリ周辺の区域から住民の避難を開始した。およそ1週間後の1986年5月までに、当該プラントから30km以内に居住する全ての人間(約11万6000人)が移転させられ、ゴーストタウンと化した。」 -wikipedia

 

 

事故後チェルノブイリ原発から半径30kmの範囲は住民が強制退去させられました。(ソ連政府の対応は遅く事故発生から36時間後にやっと避難が開始されました。その36時間住民は普通に暮らしていました。)

 

さらに東西600kmに及び放射線のホットスポットがあちこち点在しそこも禁止区域となっています。それら禁止区域全ての面積は約2600km^に及びます。

ソビエト政府により13万5000人の住民は強制移住させられました。この範囲はウクライナとベラルーシ、そしてロシアにまたがります。

ベラルーシの強制移住を強いられた村の数は92にも上ります。

Chernobyl Exclusion Zone -wikipedia(en)

 

 

 

 

プリピャチとは

 

多くの廃村になった村や町の中でも、プリピャチは特別です。

プリピャチ(英:Pripyat , 露:При́п’ять)は、廃村となった中で最もチェルノブイリ原発に近い町だからです。

 

チェルノブイリ原発から北西に1.5km。ここがプリピャチです。

 

 

事故直前の人口:49360人

面積:6.3km^

 

「ソビエト連邦時代の1970年2月4日、チェルノブイリ原子力発電所の建設と合わせて創建された計画都市である。

当時は地図上にない閉鎖都市であり、厳重な警備態勢が敷かれていた。1978年5月27日には、チェルノブイリ原子力発電所1号炉が営業運転を始めた。」

-プリピャチ wikipedia

 

“地図に無い閉鎖都市”って事故のあるなしに関わらず明らかにやばい響きです。

プリピャチはチェルノブイリで働く人とその家族を住まわせるために1970年に作った都市です。チェルノブイリと共に生まれ共に死んだのです。

 

プリピャチを20世紀史上類を見ない廃村と呼んで誇張ではありません。

チェルノブイリへ行く現地ツアーではここプリピャチを訪れることになります。

 

 

プリピャチのここがすごい

 

 

「原発事故後、街がそのまま放棄されたため、ソ連後期(「停滞の時代」と言われたブレジネフ時代よりペレストロイカ開始前までの間の時代)の特徴をよく示した集合住宅などの建築物などがそのまま残されたゴーストタウンと化している。」 -wikipedia

 

ソ連の国策によって作られたためプリピャチの建造物群は皆鉄筋コンクリート製の強固なものです。

まさに「ソ連」がそのまま時を止めて今もあるようなものです。

それらは森の木々や植物に浸食されつつゆっくりと朽ち続けています。

 

 

 

ホテル

 

まず村に入って出迎えてくれるのは地上6階建てホテルの廃墟。

プリピャチの町の規模には似つかわしくないほど豪華で大きなホテルです。これは原発視察者のために作られたホテルとのこと。

готель Полісся (ホテルポリーシャ)

готель とはウクライナ語でホテルとの意味です。

周囲を森に囲まれた辺鄙な村(町といったほうが適切かもしてません)なのにこんな巨大なホテルがあったのです。

 

 

 

体育館

 

ここで休日を楽しんでいたプリピャチ村民が居たのかもしれません。

 

 

 

プール。

水は凍結しています。ウクライナは冬冷え込みます。

私が訪れた2月のウクライナの平均気温は最高が0度、最低気温が-4度です。

 

 

市民ホール

 

 

舞台ホール。

かつては階段状の客席があったようです。

 

舞台に上ると、照明装置が落下していました。

 

ホールの舞台裏の部屋にはソ連の政治家の肖像画が放置されていました。右はあの有名なヨセフ・スターリン

左のおじさんは良く分かりません。

 

奥に転がっている看板、клуь избирателеи は”有権者クラブ”という意味。さっきの段々の客席があるホールは政治的集会に使われていたことが想起できます。

 

手前に転がっているагiтпунктは post office の意味。なんでココに落ちてるかは謎。

 

 

観覧車

これは世界で最も有名な観覧車のひとつかもしれません。

 

 

誰も乗る人は居ません。

 

 

スーパーマーケット

 

 

暴動があった後のような破壊されっぷりの店内。

 

ここにはアイスか、冷凍シウマイが売っていたのかもしれません。

 

 

学校

 

プリピャチ村には学校もありました。

規則的に並んだ扉が学校特有のオーラを発しています。

壁の劣化が不気味さを増長します。

 

 

 

中庭には木が生え放題です。

 

 

 

放棄されたラーダ

 

 

愛しいソ連カー、ラーダ。今や鉄くずです。

こうした放置された物体には放射性物質が堆積しているとのこと。

 

 

廃線

 

原子力発電所の近くには線路があります。これは何かしらの発電所用資材運搬に使われていた可能性があります。

 

上の写真は線路の錆具合から廃止された引き込み線ですが、

実はチェルフチ村まで鉄道が現役でまだ走っているとのこと。

ツアーガイドによると、ここチェルノブイリから東に40kmほどのSlavutychという町から、チェルノブイリで働く作業員を乗せるための列車が運行しているとのこと。

 

 

 

診療所

 

チェルノブイリ町付近の少し離れた小さな村の診療所です。

チェルノブイリ町はプリピャチ村から南東に20kmほどの場所にあります。(原発と同じ町名ですが町は別の場所です。)

床は抜け落ち、壁の素材ははがれて散乱しています。

 

 

 

慰霊碑

 

 

事故後の救出活動を行った多くの消防士たちは核の炎を消し止めようと空しい努力をしまし犠牲になりました。

ソ連政府の発表では消防士の犠牲者数は33人とのこと。彼らを弔うための銅像です。

 

 

おわりに

 

確かなことはこの建物群は1970年の街の開設から16年間の1986年までの短い期間、人間に使われていたことです。

事故後に全ての人々がここを去ったことも。

 

全ては現実に起きたことです。

 

 

チェルノブイリ見学ツアーは他のどんなツアーでも体験することが出来ない、圧倒的な廃墟を味わえるツアーです。

これ以上ユニークなツアーは無いでしょう。

ウクライナに行く際は、ぜひ参加してみてください。

 

近いうちにツアーの参加方法を別に記そうと思います。

 

 

ちなみに

 

「原発事故後も、プリピャチは非常に近づきやすく、また道路上は比較的安全である。しかしプリピャチとその周辺は生活するには危険であり、放射性物質が安全なレベルまで十分に減少するまで約900年かかると概算している。そのためプリピャチを歩き回る際にはガイガーカウンターが必要となっている。全ての建物のドアは中に入る人の危険性を下げるために開け放してある」-wikipedia

 

一応多分危険らしい。

 

…..

 

 

 

犠牲者の住民の方、消防士、事故後病気に苦しまれている方、奇形で生まれた動物達、オレンジの森

そのすべてに心よりお悔みと同情を申し上げます。

 

 

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